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KING OF PRISM 好きとか理想とか現実とか(第7話レオ回感想)

第7話、レオくん回。本当に、なにから書けばよいのか…いくらでも、いつまででも書けてしまうので、ポイントを絞って書きたいと思います。

レオくんは本当に優しいですよね。男らしくなりたいとの決意は、「レオが自分たちのせいでいじめられてしまった」と泣く姉の姿を見たからでした。東京に出てエーデルローズの門を叩いたのは、姉たちの期待に応えようとしてのことでした。自分の好みや進路を、他人を慮って決められる人はなかなかいません。ただ、この「姉を喜ばせたい、姉の喜ぶ姿が見たい」との気持ちは、レオ自身を縛るものにもなってしまっていたのだと思います。
好きを好きと言えない気持ちはとても苦しいものでしょう。あるべき自分を自分で決めてしまうと、そこにたどりつけなかったとき、責める相手は自分しかいません。好きを好きと言えない理由が、自分のあるべき姿を決めた要因が、他人を思いやってのものであれば、その苦しみはなおさらでしょう。誰も悪くない、でも自分自身の心に従って選んだ理想でもない、さりとてその姿に近付けないのは苦しい、その袋小路を自分で突破するのは、意志が強ければ強いほど困難で、他人の力を必要とするのだと思います。
ありのままの姿をエーデルローズの人たちが受け入れてくれた、というのはレオくんにとって第一歩。まずは無意識に、次は意識的に「そのままでいいんだよ」と言われることで、レオくんは「好きを好きという気持ち」、「ありのままの自分でもいいのだと思える気持ち」と向き合うことができたのでしょう。そしてそれは、姉に向き合う重要なステップ。突然訪ねてきても、服装を変えて髪型を変えて声を変える、そこまでしてレオくんが姉に見せたいのは、「男らしくある自分の姿」ではなく、「男らしくいるからもういじめられない、学校にも問題なく行くことができている」自分の姿だったのだと思います。姉が心配していたのも、「レオが男らしい姿かどうか」ではなく、「学校にはちゃんと行けてる?」ということでしたから。少し脇道ですが、この「ちゃんと学校に行けてる?」という姉の言葉、レオの過去のお話を聞くと全然違った色合いになりますよね。「心配には及ばない」「ファンクラブがある」という情報は、具体的にレオくんが「問題なく学校に行けている」ことを示すエピソードトークであり、レオくんの過去を詳しく聞いておらず姉の質問の真意が理解しきれないであろう状況の中で、よくぞ最適解を選び抜いたなという感じがあります。今まで築いてきた時間のなせるものだったのかもしれません。レオくんも含めてここの7人は、しばしばそういう「最適解を見付ける」ことに長けているなと思うことがあります。


レオくんがエーデルローズに入って、「男らしく」と試行錯誤しながら、楽しく幸せな生活を送り「ちゃんと学校に行ける」ようになったのは、間違いなくエーデルローズで共に暮らす仲間たちのおかげでしょう。あのまま北海道にいたら、きっとこの未来はなかった。ただ、これは単にレオくんが幸運だったからだとはわたしは思いません。

人は、生まれる場所や家族を選ぶことは出来ません。ただ、成長するにつれて人生の自由度は高くなっていくし、生きていく場所は選べるようになります。通う小学校はあらかじめ決まっていたとしても、中学や高校や、その後生活する土地、大学や学校、会社は自分で選ぶことができます。それは、たとえ小学校で馴染めなくても、年齢を重ねる毎に、選択肢が増える毎に、自分を周りに合わせるのではなく、自分に合う環境を自分で選べ取れるようになるということだと思っています。周囲の環境を自分に最適化する自由を、わたしたちは皆持っているのです。もちろん幼少期に馬の合う人と出会い、竹馬の友として一生仲良くいられることもあるでしょう。ただ、歳を重ねてから出会う友人の方が深く仲良くなれることがあるとしても、それはある意味当然のことです。自分で選ぶことができた友人なのですから。

だからレオくんがエーデルローズで気の合う仲間たちと出会えたのも、決して特別なことではないのだと思います。何が言いたいかというと、形は違えどこういう周囲の環境の最適化は現実世界でも誰にでも起こることだから、だから今いじめや自分の好きが否定されて辛い子供がいたとしても、全然レオくんが特別ではないのだと思ってほしい、まだ人生を諦めないでほしい、だからKING OF PRISM -shiny seven stars-を見てほしい、特に7話は全人類に見てほしいということです。


話が逸れました。

「本当の私を見て下さい」から始まるプリズムショーは涙なしでは見られませんでした。好きなものを無理してごまかさない、と歌いながら衣装チェンジで蕾から花開き、お花のスティックとピンクのスカートを纏う姿は最高に可愛く、でも可愛いだけではなくて、優しさとか強さとか気高さとか、わたしの少ない語彙では表しきれない美しさがありました。自分の好きを曲げない、自分に嘘をつかない、わたしはわたしらしく、貴方は貴方らしくと言ってくれるレオくんの決意のショーは、レオくんが過去を乗り越え、溢れる包容力で私たち受け手の心も包み込み肯定してくれ、更には「姉のため」の気持ちも感謝と共に「もう自分は大丈夫、だから格好も生き方も無理しません、男らしいとかそういうことには囚われません」という気持ちに昇華し、ずっと自分を守ってくれていた姉たちからの巣立ちをも表明する、色々な意味を持つショーだったのだと思います。


ただ、わたしは割と「好きなものは好き、何が悪い」「これで友達やめるならやめてくれ、我慢する方がつらいわ、けど未だにわたしと仲良くしてくれているということはこういうのもまぁ受け入れてくれるやんね、別に一緒なもの好きになってほしいとは言わないし」みたいな性格で、かつミーハーなので「流行っているものが好き」ということはあっても「自分の好きが社会標準からズレる」みたいな経験があまりなく、どうしてレオくんのショーにここまで心を動かされるのか、どうしてこんなに泣いてしまうのか、自分のことながら全然分からなかったんです。劇場で鑑賞すること7回、通算8回目になる昨日のテレビアニメ視聴時、ようやく分かった気がして。それは最後の家族集合シーンで、姉が「もうちょっと東京で頑張ってみる。なりたい自分とのギャップが大きくて」と言った、あのシーンに集約されていたのだと気付きました。

わたしにも「なりたい自分」「理想の自分」があります。今の自分となりたい自分との距離を測ることすらできない、どうしたら近付けるのかも分からない。抱えている問題は多く、レイヤーが異なるために一度に解決することは叶わず、そもそもどうアプローチすれば解決までの道のりに乗るのかも分かりません。手遅れになってしまったことを嘆き、正しく使えなかった時間を悔やみ、今後の人生どうやって進んでいけばいいんだと、もう絶望だ絶望だと泣きわめきたいとき、わたしには泣きわめける相手もいなくて、だからそんな自分を肯定してくれる存在もいません。真綿でじわりじわりと首が絞まっていくような少しずつ選択肢の狭まる人生の中で、自分で自分を肯定できる程の強い自我もなく、プライドもなく、今までちゃんとやってきたという自負もない、そういう人間すら、レオくんは「きれいじゃなくていい」と言いながらあのショーで肯定してくれたのだと、そう感じたのだと、昨晩気が付きました。本当はそんなことレオくんは言ってくれていないかもしれない。けれど、わたしがそう感じたというのが、このキングオブプリズムシリーズにおいては重要なことなのではないかと思うのです。


レオくん回は言いたいことがいっぱいあります。でも、この辺にしておきます。
レオくん、ありがとう。わたしはレオくんのプリズムショーが見られて、本当に幸せ
です。