そして明日も生きようと思う

好きなものは、アニメ・アイドル・あまいもの。30代に向かってお散歩中。

KING OF PRISM スタァになるということ(5話ジョージ回感想)

何度でも見たいジョージ回。他に大好きなスタァはいれど、お当番回としてはジョージ回が1番好き。あまり順番を付けるのは好きではないけれど、それでもジョージ回は1番好き。田舎から出ること、東京という街への憧れ・期待、何かを選びその他を捨てるということ、そして、その裏にはスタァになりきれない男がたくさんたくさんいること。似た境遇にある人間の心を滅多刺しにする回だと思います。


第2章は名前がテーマの章だと思う、という感想を前回カケル回でさせていただきました。

http://turnerr.hatenablog.com/entry/2019/05/13/000545?_ga=2.134297017.937225136.1557537343-878373701.1556705864

ジョージは本川則之を捨てて、高田馬場ジョージとしての人生を自分で選びます。いつか一男に向き合わなければならない、と言いながらカケルを名乗る十王院とは対照的です。

今まで見たことのなかったフォルムの本川則之くんから発せられる言葉は、見た目のインパクトとは全く違う種類の衝撃でした。「こんな街嫌いじゃ」「東京に出るんじゃ」「法月仁はすげえんじゃ」「法月仁の下でスタァになるんじゃ」…田舎で生きる息苦しさ、閉塞感、東京に出ればこんなものから解放されるはずだという期待、それらは「こんな街嫌いじゃ」の気持ちと相まって、本川則之くんに本川則之を捨てさせ、高田馬場ジョージとしての道を選ばせるに十分なものだったでしょう。

人間の評価軸は、成長とともに変化していきます。小学生のときは足が速い男の子に人気が集まり、中学生では悪い男の子に、高校生では…と、人気のある男の子のタイプが変化していく現象は、強弱はあれど誰もが体感したことのある現象だと思います。そして、田舎であればあるほど、コミュニティが濃密であればあるほど、初期の出遅れは致命的です。小学生の時に「そういうやつ」にされてしまえば、中学でも高校でも、小学生の頃の自分を知っている人間がいる限り「そういうやつ」で居続けさせられる。そこからの一発逆転は本当に困難で、よほどの「何か」が必要になります。恐らく高校に上がったと思われる本川則之くんの(小学生時代とは違った意味での)衝撃的なビジュアルも、そうであるなら一定納得が出来ます。「こんなところ嫌いだ」「こいつらとは違う人間になる、東京に出てこいつらより良い生活を送る」と言って少しずつ少しずつ田舎から離れて東京に出て来た人間として、岡山時代の回想と、それに対比される高田馬場ジョージの東京での華やかさ、そして「のりくんはすげぇんじゃ」と全てを肯定してくれるミヨちゃんに、どれだけ映画館で救われたことか。何度観ても涙を流さずにはいられない、個人的にとても強く感情が揺れるシーンです。


ジョージの「プリズムスタァとしてのプロ意識の高さ」が随所随所に見られることは、他の方々が指摘されている通りだと思います。それは、エーデルローズのスタァ候補生たちが1人の人間として思い悩みながらスタァ候補生としても個人としても成長していくのとは対照的に、ジョージが個人的な悩みも葛藤も人間的成長も既に過去の物として乗り越えて、スタァとしてのみ生きていく覚悟を決めた人間だからなのだと思います。おそらく彼の中に残った最後の「本川則之」がミヨちゃんだったのでしょう。ミヨちゃんの結婚宣言により半ば強制的に「本川則之」を剥がされたジョージが、ぼろぼろになりながら「俺を誰だと思ってる。The シャッフルの高田馬場ジョージだ!」とステージに向かった瞬間、彼はスタァ高田馬場ジョージの1つの最終形に到達したのだと思います。だとすればジョージのスタァとしての段階は、明らかにエーデルローズ候補生からひとつ上にいます。そう思うと、ショーの高得点も全く違和感はありません。エィスと2人で飛んだからだ、という解釈もありますが、単純に今の段階ではスタァとしてジョージが頭ひとつ抜けているからかな、というのがわたしの気持ちです。


また、ジョージ回は、ジョージの成長だけでなく裏番組的にエィスの成長物語としても機能しているのだと思います。「俺が歌わなければジョージなんて」から、「ジョージが俺の歌を待っている!」までの気持ちの変化はまさに心の飛躍、プリズムジャンプ。


シュワルツローズに所属する際、おそらく歌唱力のみを法月仁から認められ、ジョージのゴーストシンガーとしてのみ表舞台に出ることを(出てないけど)許されたエィス。それを受け入れられていない、自分だってジョージのゴーストシンガーではなく1人のプリズムスタァなのだと考えているような描写が前半には多く見られます。ジョージの焼肉弁当を食べたり、ミヨちゃんの前でジョージの秘密をばらしそうになってしまったり。そんなエィスが「ジョージと自分とは『格』が違う」という事実を目の当たりにする瞬間がありました。一つは、ミヨちゃんに壁ドンをキメたシーン。ミヨちゃんは「のりくんはうちのスタァなんよ」と言ってエィスに背を向け、ジョージのところへ走り出す。「スタァっていうのは、このタイミングで登場できる男のことを言うんだよな…」とジョージのスタァ性と同時に自分の平凡さを悟るエィス。エィスだってそれなりにプライドがあります。自分だってジョージの代わりにステージに立つことができる、自分なしではジョージはステージに上がれないとさえ思っているわけです、この時点では。そんな彼が自分の平凡さに「気付かされる」この瞬間は、5話屈指の名シーンだと思っています。結局ここでも自分が平凡であると悟るエィスを通じて、ジョージのスタァとしての非凡さ、圧倒的なスタァ性を裏からも描いているのです。

こうしてエィスの気持ち、プライドを揺さぶっておいて、「俺を誰だと思っている。The シャッフル、高田馬場ジョージだ」が来るわけです。ジョージをジョージたらしめる「意志」、天性の輝きだけではない、鋼のような意志と努力に裏打ちされたスタァとしてのジョージ…更にダメ押しの音響トラブル(仲間割れ)と、それに気を留めずスタァとしてのパフォーマンスをやり切ろうとするジョージ…もういいよ!ジョージがすごいのはよく分かったから!こっちの気持ちが持たないよ!こっちは平々凡々な人間だから、エィスくんにもそれなりに感情移入しているんだよ!!!!!


とはいえ、ジョージが本川則之を捨てて高田馬場ジョージとして生きていくということは、強さと同時に弱さも内包させてしまっているというのもまた事実だと思います。本人にとって消したい過去であっても、捨てたい自分であったとしても、その頃がなければ、その頃の感情や努力や、苦しみや怒りがなければ今の自分はいません。どんな過去も現在の礎になっているし、だからこそ過去を完全に捨てることなど出来ず、過去から目を背け続けるといつかどこかでぐらぐら揺れてぽきっと折れてしまいます。ラーメン屋さんでミヨちゃんが指摘してくれた「こんなことで揺らいだとしたら、迷っとんのはのりくんの方じゃろ」はまさに高田馬場ジョージの弱さを突いた、幼馴染だからこそ見える、言える言葉だったのかなと思います。ジョージ、いつかは過去の自分も受け入れて、ミヨちゃんに「本川則之の頃から応援してくれていてありがとな」って言えるといいな…


ショーでエィスの目線が帽子で隠れているのはやっぱり影の存在だからなのかなとか、ジャンプを跳んだあと着地が出来ていないところはやっぱりスタァとしては今一歩なのだなとか、そういう話はこのくらいにしておきます。何故なら長くなりすぎてしまうから。きっと他の方がたくさん考察して下さっていると思うので、色々読みたいなと思います。


一つだけ、最後に一つだけ。ミヨちゃんはお昼ごはんに何をリクエストしたと思いますか?わたしどうしても分からなくて…

「ラーメンが食べたい」だと、あのお店には連れて行かない気がするんです、ジョージは。ミシュランいくつ星とか、東京でしか食べられない変わったラーメンとか、そういうのに連れて行きそう。だって東京でのジョージのエスコートは、徹頭徹尾「ミヨちゃんの見たいもの」よりは「ジョージがミヨちゃんに見せたいもの」だったじゃないですか。

だから、ミヨちゃんのリクエストは「ラーメン」ではなかったのかなと思っていて。例えば「東京でのりくんが初めて入ったお店」とか。「実はこっそり行きつけにしているお店」とか。そういう感じなのかなって思ったんですが、何の根拠もないので。エリートの皆さんはどう考えているんだろうって…ご意見聞かせていただければ幸いです。特に意味はないです、ただの興味です。でも、色んな人の考察とか感想読むの、楽しいじゃないですか。ね。