そして明日も生きようと思う

好きなものは、アニメ・アイドル・あまいもの。30代に向かってお散歩中。

獣になれない私たち第1話

今期の「女性だって人間なのだ」枠連続ドラマ。まだ1話のみの放送であるものの、世間からの期待感は高いように見える。


1話では新垣結衣演じる晶の描写に「苦しい」「涙が止まらない」など、主に女性からの共感の意見が爆発していた。ように見えた。


最後、晶の服装や化粧が変わり業務改善要求を突きつけるシーンでは胸のすく思いをした女性も多かっただろう。


…本当に?




とかくこの世は生きにくい。それは、一人で暮らして、男性に混じって働いて、うまくいかないことも、ほぞを噛むことも多いわたし自身も日々感じている。

「女性であるがゆえに」つらい思いをしている女性たちも、いまの世の中には多いと思う。


けれど、わたしはそういう論調をよしとしたくはないのだ。


私たちが「女性だからつらい」と声をあげるとき、それは慎重になされなければならない。


生きづらいこの世界は、本当に私たちが女性であるために生じたものなのだろうか。

職場で周りの目を気にして服装を決めるのは、私たちが「女性」だからなのか?つらいことがあっても笑っていなければいけないのは、私たちが「女性」であるからなのか?(もちろん、土下座した頭を撫でられる、というように女性固有の苦しさも描かれていたけれど。)



主語の大きさとして、特に女性という性別は時に便利で、共感を得られやすい。

けれど、そうであるからこそ、私たちは、このもやもやした感情の原因が本当に自分の性別に起因するものなのか、実はもうちょっと考えてもいいのではないかと思う。

それは、自分だからなのかもしれない。もしくは、私たちの世代だから、合わない風習だったり空気だったりするのかもしれない。もっと主語を大きくして、そもそもみんなつらいのかもしれない。今とは全く違う時代を背景に作られた制度が、平成も終わりになろうとしているこの時代にぴったり合致しているわけがないのだから。




さらに言えば、そもそも人間を男女ふたつに分けること自体がナンセンスとなりつつある今、女性だからと声をあげることは、力であり、リスクであると思う。その言説は、「(わたしのような)女性」にはなっていないか?その論調からこぼれてしまう「女性」はいないか?「女性」とは、なにをもって「女性」とするのか?




とは言えこのドラマを批判するつもりは全くないので、2話も楽しみにしています。願わくば晶が彼女なりに幸せになれるよう。