そして明日も生きようと思う

好きなものは、アニメ・アイドル・あまいもの。30代に向かってお散歩中。

KING OF PRISM i love you,baby(第9話 アレク回感想②)

あまりに長くなってしまって、自分が一番驚いています。何であればうっすら引いてすらいます。
愛が重い、と実生活でも良く言われます。中学生の頃、水をやりすぎてサボテンを枯らしました。

前編では、アレクがもともと持っていた真っ直ぐな想いを周囲からふんだんに注がれた愛情の中ですくすく育てた結果最高の好青年になったという話を熱量高く書きました。
http://turnerr.hatenablog.com/entry/2019/06/12/031734
後編では、そんなアレクが「見ていて下さい」と言ってショーを始めた話からしす。


ここまでこのステージ上での口上は、自分を奮い立たせたり、決意表明だったり、そういうものでした。特定の誰かに、一人のためにこの場で言葉を紡いだのは、今のところアレク一人です。ストリート系は己の道を極めるもの。自分の目指す道の一番向こうにいるのが黒川冷という一人の人間なのだろうと、改めて感じた瞬間でした。大黒ふ頭で誘った経緯もありますし、あのとき黒川冷からかけられた言葉への自分なりの答えとしてのショーを見てほしいという気持ちももちろんあるのだと思います。
尊敬する人に、自分の今の姿を見て下さいというのは、すごく勇気のいる行動だと思うんですよね。自分が今から見せる姿は現時点での完成形だという自信とか、今まで筋トレも歌もダンスもジャンプの練習も人一倍やってきたという自負とか、恥ずかしいものは見せないという覚悟とか、そういうもの全てがないと、尊敬して憧れている人に対して、あんなに真っ直ぐな眼で「見ていて下さい」なんて言えないと思うんです。それは泣くもんかといっていた頃のアレクから彼がしっかり成長した証ですし、強くなったな~そういう格好良い人間大好き~アレク格好良い~と泣きに泣きました。全然語彙力が足りていないですが、ここで黒川冷に「見ていて下さい」と言えるアレク、大好きなんですよ。「憧れの人」を持つ人間にとって、その人との距離感の取り方って性格だとか実際にある温度感とか距離感とかすごく色々なものが出ると思っていて、徒に神格化するでもなく、恐れ多いと距離を取るでもなく、ぼんやりと目標にするでもなく、意識しすぎて話せなくなるでもなく…とにかくあらゆる距離感ある中で、このアレクの選んだやり方は最高に格好良くて、最高に好きだということです。あぁ語彙力が足りない…
あ、ショーの前にご両親の姿を見つけて恥ずかしそうにするアレクは、年相応の男の子な感じがして可愛かったですね。

そして始まったショーは、うわ~~~~~~~全然違う~~~~~~~アレク~~~~〜~!?!?!?という感じだったのですが、とにかく会場に手を振る姿が大変に衝撃でした。君の出した答えはこれかい、大和アレクサンダーくん。マイクスタンドを蹴るところで荒々しさは残したのかな。
そして不穏な動きをしつつ、少しずつ重心を下に下に持って行くアレク。あ、あれは!もしかして!
あ~~~~~~~~~~~~~~回った~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!
ここ本当に本当に本当に大好きで、タイガ「ふん、カヅキさんの真似を・・・」カヅ「違う、あれは」聖「冷の技だ!」の美しい流れ、何度見ても涙があふれてくるんですよね。タイガは黒川冷に興味ないから分からない。カヅキと聖は、逆にアレクのにカヅキを見ていない。みんな自分の見たい人間しか見ていない。自分の見たいものを、アレクのショーの中に見ている。それはきっと、キスクラみたいなVIPルームみたいなところで崩れ落ちていた仁も同じで、アレクのショーの中に、冷の、そしての自分の、自分たちの姿を見たのだと思います。


エンターテイメントって、つまりそういうことなんだと思うんです
私たちは、自分とは違う人間が、歌ったり、踊ったり、演じたりしながら生きている姿を見て、その彼ら彼女らの姿に、勝手に自分の見たい何かを、誰かを、もしくは自分自身を写して、感動したり、涙を流したり、元気付けられたり、希望をもらったり、笑ったり、怒ったりしているんだと思うんです。自分の生きている現実世界と、自己を投影して心を動かす架空の世界と、その双方から私たちは影響を受けて、人間として変化したり、自分を見つめ直したり、時には成長したりしていくんだと思うんです。そういう意味で、アレクのショーはまさにエンターテイメントの塊で、アレクショーを見ながらそれぞれ全然違うことを考えている人たちが、それぞれ全然違うことを受け取って、全然違う感情を持つ様が最高のテンポ感で描かれていて、「最高」以外の言葉を失いました。アレク最高~~~~~~~~~~~~~~。

そこから駆け出すタイガ、アレクがバトルスーツにチェンジしないのは、これがアレクにとって「ショー」であってバトルではないからなのでしょう。最後までショーをやり切るアレク、最高に格好良い。最高。
ここからは難しいことを考えない、男の子2人がスピードスケート!僅差でタイガの勝利、先手を取った!タイガ、ジャンプで仕掛ける~~~~~!!!!!最後の花火まで一気に駆け抜けます。この緩急。最高。もうショーが始まるまでに言いたいこと言い尽くした、後は最高のショーを楽しむだけだ!の気持ち。

ショーが終わってカヅキへのメッセージ、これはキンプラとの対比ですよね。前はこの時点で本当にターミネーターみたいになっていたアレク、今回は人間の顔をしてい良かった。とても格好良かったですよね。好敵手!こういうのを好敵手っていうんだよ!!!でもタイガだって、人知れず木で懸垂していたわけですし、思いの方向が違っていただけで、決してアレクの敵ではないということではないと思います。今後も切磋琢磨してください。そしてまた最高のショーを見せてほしい。

ここからはちょっとテンションを下げて。
劇場鑑賞時、アレクにマイソングがないのが本当に悲しかったんです。それは2話かずーっと楽しみにしていたから。もっと言うと、3年前からずーっと楽しみにしていたから。アレクのTRFカバーはそれはそれで素敵だけれど、やっぱりアレクのために書かれた曲でアレクのために書かれた歌詞をアレク自身に歌ってほしいのがファン心理というもの。だから劇場では本当にショックだったし、テレビ放送までに受け入れられるかなって思っていたんです。
今もアレクにマイソングを!という気持ちは変わりませんが、TRFのカバーがプリズム1のアレクにとっては最善の選択だったのだろうという気持ちも芽生えてきました。だから、マイソングを歌うべき最高のタイミングで、次はアレクのマイソングでのショーが見たいなと、今はそんな風に思っています。


あと、次はショーを最後まで見たいな。

KING OF PRISM i love you,baby(第9話 アレク回感想①)

待ってました、大好きな大好きなアレク回。
初めてアレクを見たのは、友人に「とにかく常軌を逸した上映形態の映画がある、仕
事に疲れているなら行くべき」と進められ、金曜深夜に行った新宿バルト9。素敵な声と真っ直ぐな瞳に魅せられ、映画館に足を運ぶたび、「今日は勝てるよ-!」と応援するも毎回勝てず、誕生日にも応援に行ったのにやっぱり勝てず、ひょっとしてアレクは永遠に勝てないのかな、もうアレクのこと応援するの疲れたな、だって勝てないんだもん…そんな気持ちを涙で押し流し、ずっと応援していてよかった、大好きな気持ちを失わなくてよかった、そんな風に思えた、大切な回の話をさせて下さい。

映画館で最速上映を見た際には、レオくん、ユウくんと続いてきてもう涙ぐずぐずで頭もぼうっとしかけていた中で始まった回でした。しかし、いきなりアレクの顔が違う。今までの、特にキンプラのアレクは、さながら愛に飢え暴走しターミネーターでした。鋼鉄色に身体を鈍く光らせ、機械的に光る眼に一切の人間味はなく、己の理想をガソリンとして暴虐の限りを尽くし会場を破壊する、そんな大好きな男の子の姿を見たくなくて、キンプラはほとんど鑑賞できませんでした。それがどうでしょう。あの時から理想を変えず、己を追い込み高みを目指す姿勢は変わっていないはずなのに、アバンパートでステージに立つ彼の眼は、力強く、優しく、そして美しいものになっていました。ここに至るアレクを作ったのは、きっと、彼自身の強い「想い」と、彼の心から溢れんばかりにふんだんに注がれた愛情。その2つの側面を丁寧に描いている前半パートだったと思います。

時に同じような文脈で語られる、タイガとアレクの「ちゃらちゃらしてんじゃねー
よ」という姿勢。しかし、根っから不器用で硬派な性格から来るタイガのそれと、ア
レクの一途なまでの思いは、実は全く異なるものでした。幼少期に不良に絡まれたと
ころを救ってもらった、自分の方は向いていなかったけれど、助けてくれた人は自分
のことを「ダチ」と言ってくれていた、それはとてもとても記憶に残る出来事だし、
助けてくれた人を英雄視するのに十分な出来事です。格好良い。とても格好良い。そ
れだけでも十分に格好良いのに、それがプリズムスタァ、ストリートのカリスマ黒川
冷だった。それは、一人の人間への感謝以上に、「ストリートのカリスマ黒川冷」を
英雄視し、崇拝し、もちろんファンになる、そんな気持ちになります。当然です。プリズムショーをテレビでチェックし、黒川冷の記事が掲載された新聞は購読する。アレク回の中で、新聞がアイテムとして描かれているのは黒川冷絡みのシーンだけで
す。スナックと新聞はあまりマッチしないとはいえ、古新聞のような描写もありませ
ん。大和家、スナックヘル、もしかして新聞読む慣習ないのでは。幼少期アレクは、
黒川冷が載っている新聞をわざわざ買って、ママの前で読んでいたのでは。「あのとき冷の身体は浮いていたんだ!」「何言ってるの?」は、そうであるなら、アレクの持っていた新聞をママは読んでいないので、それは息子が何言ってるか理解できないよな、と思いました。
そんな大好きで大好きな黒川冷が、楽しみに楽しみにしていた大会に出ない。そのま
ま表舞台から姿を消してしまう。ここから「僕がストリートのカリスマになるん
だ!」までの思考の飛躍は、正直凡人の自分には理解しきれない部分でもあります。
あのとき助けてくれた冷のように強くなるんだ→筋トレを始めたらしばらくして「ス
トリートのカリスマ」を名乗るプリズムスタァが現れる、しかも凡そ自分の憧れてい
た黒川冷とはスタイルが違う。あんな奴にストリートのカリスマは名乗らせない。自
分がその位置に付いてやる、というところでしょうか。書いていて今も全然整理でき
ていないのであと10回は見ようと思っているのですが、おそらくアレクは黒川冷になりたいとは思っていないのではないでしょうか。黒川冷のことが好きで、憧れてはいるものの、アレクが「ストリートのカリスマ」の位置に拘るのは、そこに不適当な者(アカデミーもストリートもない、という自分とは異なる思想の持ち主である、というだけですが。もちろん。)がのうのうとのさばっているのが許せないだけ。自分の信じ、憧れた謂わば「元祖ストリート系」を守りたいのであって、必ずしも自分が黒川冷の後継者としてストリートのカリスマと名乗りたいと思っているのかというと、なんとなくですが違う気がします。この辺は本当に分からないですが…書いていて一ミリも自信がない。こんなにアレクのことは好きなのに。でもそうであるなら、「君は黒川冷になりたいのかい」と問われた仁科カヅキとは正反対だな、と思います。正反対だからこそ好敵手になれるのかもしれない。

ここまで真っ直ぐな想いを、言い換えれば理想を抱いた人間は、時に頑固で、時に暴
走します。「理想を抱いて溺死しろ」というのは私の大好きな言葉の一つですが、そ
うであってはいけないのです。死んでしまうほど頑なな気持ちは、それは理想ではな
くて意固地であり、そして我が儘なのです。実際、前作ではその頑なな理想の前に暴君と化し、破壊者となってしまった彼をここまで穏やかな顔に変えたのは、間違いなく周囲の愛情あってこそです。

大和アレクサンダー最大の理解者にして最大の味方、大和ヴィクトリア。一度海洋に
出てしまえばしばらく帰ってこない旦那、ぜんそく気味の息子、日本人ではない自
分。彼女には彼女の苦労があったはずですが、それが語られることはほとんどありま
せん。幼少期のアレクに「外行って遊んでなさい」と言ったり、浮いていたと憤慨す
るアレクに同調するでもなく「何言ってんの?」と突き放したり、プリズムカップ
勝を見に行きたいと駄々をこねるアレクに「そんなお金うちにはない」と言い放った
り、ヴィクトリアは「息子にただひたすら手をかける、様々なものを買い与える」タ
イプの親ではありません。それでも、幼少期の写真を職場に飾ったり、お腹が空いた
まま出ていこうとするアレクにカレーを出してくれたり、「育ってくれただけで嬉し
い」と言ったり、香水の香りがアレクに移ってしまうほどのアツいヘッドロックをキ
メたり、大会前にエールを送ったり、ヴィクトリアが画面に映るすべてのシーンで、
彼女のアレクへの愛情が溢れ出していました。アレクも年頃らしく照れながら、ちゃ
んと母の愛情には気付いているのでしょう。EZ DO DANCEーアレクverーの出だしと母の指輪が同じだったり、母のネックレスとアレクのバンダナの留め具が同じだったり、果ては華京院学園の学祭に母親の格好で出ようとしたり!愛情は、注ぐ側と受ける側がぴったりかみ合わなければなりません。お互いの向いている方向が違えば、注ぐ側はたくさん与えているつもりでも、受け取る側は全然受け取れていないこともあります。この親子はそういうすれ違いのない、素敵な環境だったのだなと思います。本当に、素敵な親子関係です。

そしてもう一人、大切な存在、黒川冷。アレクの理想の存在としてあり続け、重要な
場面でちゃんと出てきて、アレクに必要な自己肯定感を与え、アレクを一つ上の段階
に引き上げてくれた、まさに恩師。
黒川冷の登場はカツアゲにあっていたアレクを助けるところからでしたが、これがま
ずアレクの自己肯定感の端緒となっているのでは、と思っています。アレクの幼少期
は(今もかもしれないけれど)完璧に「ハーフ」です。金髪碧眼(紫眼)、色白。弱
い者いじめをする者にとって、「違う」というのはわかりやすく標的を定めることの
できる、免罪符のようなものです。絶対に免罪符ではないのですが。そうやってカツ
アゲの、いじめのターゲットになったアレクを救い出し、「ダチ」と呼んでくれた黒
川冷は、実はレオくん回で私たちが涙した「みんなと違ってもいいじゃない」を当時
から体現していた存在であり、そうやってアレクを「偏見」や「生き辛さ」みたいな
ものからも救ってくれたのではないかと思いました。それがあのシーンだとしたら、
黒川冷はまさに「救世主」です。
そして大黒ふ頭で再会した際の、名言の数々。すべて文字に起こして留めておきた
い、でもそろそろ長くなってきたのでこの感想の終わりも考えないといけない。とに
かくとにかく大好きの言葉しかないのですが、何よりも何よりも、「Youは良い子だ
Yo」に本当に泣きました。今までアレクにこんなこと言ってくれた人が(ヴィクトリアを除き)いたでしょうか。その姿から付いた二つ名は、ストリートの暴君、プリズムショーの破壊者。街を歩けば道を譲られ、シュワルツローズでは「あいつは違うから」と遠巻きにされ、名前を出せば「怖い人」と言われ、目の敵にされる。大好きな男の子がそんな扱いを受けて、辛くなかったと言えば嘘になります。もやもやした気持ちがなかった訳ではありません。そんな私の好きな男の子を、3年間好きだった男の子を、黒川冷は「良い子」と言ってくれたのです。アレクも嬉しかったでしょう。でも、私だって、私たちだって、嬉しかった。アレクの良いところ、いっぱい知っているのに、そんな風に言ってくれる人全然いなくて、偏見だけが一人歩きして、どんどん悪い人になっていった大好きな男の子を、細かい理由とか、理屈とか、そういうことではなく、「良い子」と言ってくれた。ここで流れた私たちの涙は、私たちの、今まで抱いてきたもやもやや、なんだかなぁという納得のいかなさや、まぁそういうところもアレクの良いところですしそういうアレクが好きなんですしという強がりや、そういう気持ちを全部全部溶かして劇場に流してくれた涙でした。そうでしたよね。そうだったと思います。

そして「今までの自分とは違う」とアレク自身が自分との決別宣言をして、私たちも
これまでの私たちと決別して、後半へと突入します。

KING OF PRISM 好きとか理想とか現実とか(第7話レオ回感想)

第7話、レオくん回。本当に、なにから書けばよいのか…いくらでも、いつまででも書けてしまうので、ポイントを絞って書きたいと思います。

レオくんは本当に優しいですよね。男らしくなりたいとの決意は、「レオが自分たちのせいでいじめられてしまった」と泣く姉の姿を見たからでした。東京に出てエーデルローズの門を叩いたのは、姉たちの期待に応えようとしてのことでした。自分の好みや進路を、他人を慮って決められる人はなかなかいません。ただ、この「姉を喜ばせたい、姉の喜ぶ姿が見たい」との気持ちは、レオ自身を縛るものにもなってしまっていたのだと思います。
好きを好きと言えない気持ちはとても苦しいものでしょう。あるべき自分を自分で決めてしまうと、そこにたどりつけなかったとき、責める相手は自分しかいません。好きを好きと言えない理由が、自分のあるべき姿を決めた要因が、他人を思いやってのものであれば、その苦しみはなおさらでしょう。誰も悪くない、でも自分自身の心に従って選んだ理想でもない、さりとてその姿に近付けないのは苦しい、その袋小路を自分で突破するのは、意志が強ければ強いほど困難で、他人の力を必要とするのだと思います。
ありのままの姿をエーデルローズの人たちが受け入れてくれた、というのはレオくんにとって第一歩。まずは無意識に、次は意識的に「そのままでいいんだよ」と言われることで、レオくんは「好きを好きという気持ち」、「ありのままの自分でもいいのだと思える気持ち」と向き合うことができたのでしょう。そしてそれは、姉に向き合う重要なステップ。突然訪ねてきても、服装を変えて髪型を変えて声を変える、そこまでしてレオくんが姉に見せたいのは、「男らしくある自分の姿」ではなく、「男らしくいるからもういじめられない、学校にも問題なく行くことができている」自分の姿だったのだと思います。姉が心配していたのも、「レオが男らしい姿かどうか」ではなく、「学校にはちゃんと行けてる?」ということでしたから。少し脇道ですが、この「ちゃんと学校に行けてる?」という姉の言葉、レオの過去のお話を聞くと全然違った色合いになりますよね。「心配には及ばない」「ファンクラブがある」という情報は、具体的にレオくんが「問題なく学校に行けている」ことを示すエピソードトークであり、レオくんの過去を詳しく聞いておらず姉の質問の真意が理解しきれないであろう状況の中で、よくぞ最適解を選び抜いたなという感じがあります。今まで築いてきた時間のなせるものだったのかもしれません。レオくんも含めてここの7人は、しばしばそういう「最適解を見付ける」ことに長けているなと思うことがあります。


レオくんがエーデルローズに入って、「男らしく」と試行錯誤しながら、楽しく幸せな生活を送り「ちゃんと学校に行ける」ようになったのは、間違いなくエーデルローズで共に暮らす仲間たちのおかげでしょう。あのまま北海道にいたら、きっとこの未来はなかった。ただ、これは単にレオくんが幸運だったからだとはわたしは思いません。

人は、生まれる場所や家族を選ぶことは出来ません。ただ、成長するにつれて人生の自由度は高くなっていくし、生きていく場所は選べるようになります。通う小学校はあらかじめ決まっていたとしても、中学や高校や、その後生活する土地、大学や学校、会社は自分で選ぶことができます。それは、たとえ小学校で馴染めなくても、年齢を重ねる毎に、選択肢が増える毎に、自分を周りに合わせるのではなく、自分に合う環境を自分で選べ取れるようになるということだと思っています。周囲の環境を自分に最適化する自由を、わたしたちは皆持っているのです。もちろん幼少期に馬の合う人と出会い、竹馬の友として一生仲良くいられることもあるでしょう。ただ、歳を重ねてから出会う友人の方が深く仲良くなれることがあるとしても、それはある意味当然のことです。自分で選ぶことができた友人なのですから。

だからレオくんがエーデルローズで気の合う仲間たちと出会えたのも、決して特別なことではないのだと思います。何が言いたいかというと、形は違えどこういう周囲の環境の最適化は現実世界でも誰にでも起こることだから、だから今いじめや自分の好きが否定されて辛い子供がいたとしても、全然レオくんが特別ではないのだと思ってほしい、まだ人生を諦めないでほしい、だからKING OF PRISM -shiny seven stars-を見てほしい、特に7話は全人類に見てほしいということです。


話が逸れました。

「本当の私を見て下さい」から始まるプリズムショーは涙なしでは見られませんでした。好きなものを無理してごまかさない、と歌いながら衣装チェンジで蕾から花開き、お花のスティックとピンクのスカートを纏う姿は最高に可愛く、でも可愛いだけではなくて、優しさとか強さとか気高さとか、わたしの少ない語彙では表しきれない美しさがありました。自分の好きを曲げない、自分に嘘をつかない、わたしはわたしらしく、貴方は貴方らしくと言ってくれるレオくんの決意のショーは、レオくんが過去を乗り越え、溢れる包容力で私たち受け手の心も包み込み肯定してくれ、更には「姉のため」の気持ちも感謝と共に「もう自分は大丈夫、だから格好も生き方も無理しません、男らしいとかそういうことには囚われません」という気持ちに昇華し、ずっと自分を守ってくれていた姉たちからの巣立ちをも表明する、色々な意味を持つショーだったのだと思います。


ただ、わたしは割と「好きなものは好き、何が悪い」「これで友達やめるならやめてくれ、我慢する方がつらいわ、けど未だにわたしと仲良くしてくれているということはこういうのもまぁ受け入れてくれるやんね、別に一緒なもの好きになってほしいとは言わないし」みたいな性格で、かつミーハーなので「流行っているものが好き」ということはあっても「自分の好きが社会標準からズレる」みたいな経験があまりなく、どうしてレオくんのショーにここまで心を動かされるのか、どうしてこんなに泣いてしまうのか、自分のことながら全然分からなかったんです。劇場で鑑賞すること7回、通算8回目になる昨日のテレビアニメ視聴時、ようやく分かった気がして。それは最後の家族集合シーンで、姉が「もうちょっと東京で頑張ってみる。なりたい自分とのギャップが大きくて」と言った、あのシーンに集約されていたのだと気付きました。

わたしにも「なりたい自分」「理想の自分」があります。今の自分となりたい自分との距離を測ることすらできない、どうしたら近付けるのかも分からない。抱えている問題は多く、レイヤーが異なるために一度に解決することは叶わず、そもそもどうアプローチすれば解決までの道のりに乗るのかも分かりません。手遅れになってしまったことを嘆き、正しく使えなかった時間を悔やみ、今後の人生どうやって進んでいけばいいんだと、もう絶望だ絶望だと泣きわめきたいとき、わたしには泣きわめける相手もいなくて、だからそんな自分を肯定してくれる存在もいません。真綿でじわりじわりと首が絞まっていくような少しずつ選択肢の狭まる人生の中で、自分で自分を肯定できる程の強い自我もなく、プライドもなく、今までちゃんとやってきたという自負もない、そういう人間すら、レオくんは「きれいじゃなくていい」と言いながらあのショーで肯定してくれたのだと、そう感じたのだと、昨晩気が付きました。本当はそんなことレオくんは言ってくれていないかもしれない。けれど、わたしがそう感じたというのが、このキングオブプリズムシリーズにおいては重要なことなのではないかと思うのです。


レオくん回は言いたいことがいっぱいあります。でも、この辺にしておきます。
レオくん、ありがとう。わたしはレオくんのプリズムショーが見られて、本当に幸せ
です。

KING OF PRISM 求められる自分の探し方(第6話 ミナト回感想)

「名前」をテーマにした連作短編集最終章、鷹梁ミナト回。いつか一男に向き合わなければいけないと考えつつカケルと名乗るカケル回、俺はもうダサいのりまきじゃない、高田馬場ジョージだ!のジョージ回。それと比べて、親からもらった名前をそのまま名乗っているミナトは、自分の名前を受け入れているようにも見えて、その実1番「名前」というものに囚われているようにも見えました。
例えば、滅多に実家に帰って来ないで久しぶりに帰省した孫に向かって「お前が家の港になるんだ」と豪胆に言い放つ祖父。ミナト=港というあまりにも分かりやすい図式に当てはめられてしまいがちな名前故に、「そういう役割」を時に意識的に、時に無意識に求められ続けたことが伺われます。母親が勝手に願書を送ってしまい、面接(?)のために上京する新幹線のシーンは、ミナトが自分の役割を「そういうものだ」として自分に課すような、そんな台詞がありました。おそらくあのままあの思考回路のままであれば、ミナトがエーデルローズに入学することはなかったのではないかと思います。コウジ、あのときミナトに出会ってくれてありがとう。美味しいご飯を振舞ってくれてありがとう。コウジの天然無意識人たらしには時々怨嗟の声(「コウジそういうところだぞお前!」という涙声)が聞こえることがありますが、このときばかりは「よくやった!!!!!」というところでしょうか。しかし、家族の中で長兄としての責任感を背負い込んでいるミナトに出された料理はお子様ランチ…コウジお前そういうところだぞ本当に。

名前に限らず、自分の役割を過剰に意識してそれに縛られてしまうことは、現実世界においてもよくあることだと思います。家族の中では、姉だから、兄だから、娘だから、息子だからと生まれ持った「役割」を、学校に上がればそれは「キャラ付け」として機能し、社会に出れば加えて「役職」が必ず付いてきます。真面目であればあるほど、周りが見える思慮深さがあればあるほど、この「自分に課された役割」に縛られていく、そんな人は少なくないはずです。突破口が見つからず、自分で自分をどんどん縛ってしまい身動きが取れなくなっていく、そんな膠着状態を「なんとなく最近生きづらいな」ともやもやしている人に、ミナトの父親はあの浜辺で、ミナトにミナトの名前の由来を話すことで、優しく寄り添ってくれたのだと思います。自分で自分の役割を「こうだ」と決めてしまい、がんじがらめに自分を縛ってしまっている人に、「そうじゃなくて僕たちはこう考えていたんだよ」と示唆を与えることの難しさ、優しさ。それを素直に受け止めさせるための信頼関係。言われた方がその言葉に救われ、顔を上げる瞬間。そういうこの世の美しいものがたくさん詰まった、6話屈指の名シーンでした。

この浜辺での両親との会話はまた、もう一つの点でも多くの人の心を滅多刺しにしたシーンだったことでしょう。父親からミナトへ送った、「君は僕たちの子供だ、才能はないかもしれない〜」で始まる一連の言葉です。

夢を抱いて地方から上京するとき、東京に思い描くのは憧れや夢や希望です。ジョージ回の感想でも触れましたが、地方から出て来た人間にとって、東京は、自分の夢を叶えるためのステージで、そこであれば今までとは違う自分になれるかもしれない、特別な場所です。そんな場所で、憧れの人を作ってしまったら。すごい人がいるのだと感動してしまったら。そこからの道は、その先を目指す道は、楽しいことやラクなことだけでは決して前に進むことが出来ません。思い通りにならないことがあれば悔しく、次第に見え始める自分の限界は苦しく、どうしたって自分には絶対に届かない場所に軽々登っていく(ように映る)周囲の人たちを見るたび、もう自分は東京に居場所なんてないのではないかという思いに打ちひしがれます。自分が憧れた人は段違いにすごい人で、背中だって追いかけることが出来る人ではなかった。世界が広いことは知っていたけれど、分かっているつもりだったけれど、でもここまで広いとは知らなかった。そんな気持ちを抱えながら、それでも憧れに向かって進み続け、自分の道を、自分の居場所を探し続けるミナトは、過去を捨て去って前へ前へとがむしゃらに進むジョージとは異なりますが、同じような強さを持つスタァ候補生なのだと思います。本当にすごい。立派です。

ただ、それは本人から見えている本人の周りでのみ起こっている出来事。たとえ自分の現状を訴えようと、物理的に離れて過ごす家族にとって、希望に満ちて家を発った姿が彼らの脳裏に残る自慢の息子/娘/孫。そのイメージがいつまでも色褪せない分だけ、涙や、後悔や、絶望はいくら言葉を尽くしても家族に完全には伝わりません。「ミナトはスタァになる勉強をしに東京に行ったんだから」という祖母の発言や、無邪気に「プリズムショーはどう?」と聞く母にとって、ミナトは今でも「すごい人がいるんだと目をキラキラさせながら東京行きを決めた鷹梁家の長男」のままだったのだと思います。それを分かっているから、そして自分から言い出した以上は、更には自分は長男だから、あの場でミナトは父の質問に対して「頑張ってるよ」と曖昧に言葉を濁すしかなかったのでしょう。私たちは、自分があの顔をする瞬間を知っている。これまでの人生で、あの顔を既に経験している。基本的にミナト回は30分のうち27分くらいは涙を流していますが、この辺りからは鼻水も止まらなくなってきます。

そして浜辺のシーンに繋がります。
ミナトは本音を隠すときに笑って目を閉じますよね。2話のユキノジョウ回、ユキノジョウがシンに枠を譲る際もそうでした。そうであるなら、浜辺シーンの冒頭、潮に翼のことを話すところの顔の変化はとても気になります。「翼に会うために帰ってきたのか」については目を閉じることなく「翼は大切な妹だ」と返しているのに、その後「母さんが心配だったんだ」の時には目を閉じているからです。その後「家に戻ってくるつもりなのか」と母に問われた際も当初は「まさか」と目を閉じます。ミナトが何故実家に帰ってきたのか、仄めかせていく演出なのかなと思いました。
周囲はみんなすごい、と言うミナト。単純にプリズムショーの実力で言えば、ミナトはエーデルローズの中で1人だけ特段劣っているというわけではないと思います。もちろんトップではありませんが、7人の候補生は、シン、ユキノジョウ、タイガ以外はそんなに差はないのではないでしょうか。その中で「周囲はみんなすごい、敵わない」と言えるミナトは、きっとプリズムスタァ候補生としてだけでなく、6人の色んな面を見ているのだと思います。ビジネスの世界に身を置きながらプリズムショーの世界でも努力できるカケル。美容に気を遣い、「可愛い」への嗅覚が敏感で、衣装を通じて6人を支えるレオ。曲を作らせたらとにかく天才のユウ。そういう他人の良い面が目に入りやすいミナトだから、「すごい人ばかり」という言葉が出てきたのでしょう。そのミナトの優しさを肯定しながら、ミナトが自分にかけたがちがちの鎖をほどき、ミナトに託した自分たちの理想を伝え、自分たちの息子だから、と前置きをすることでミナトの抱えている無力感をさらっと自分たち両親に起因するものだと引き取り、自分にしかできないことがある、今出来ることを精一杯やりなさいと優しく背中を押す父親の言葉は、ミナトだけでなく、同じように地方から出てきたものの自分の平凡さに絶望し、頑張り方も分からなくなり気が付けば同じ毎日を過ごすようになってしまった私たちへの言葉でもあります。あの浜辺で救われたのは、私たちだった。

とはいえ、ミナト回では課題もしっかり描かれていました。まずミナト自身について。カケル回でも触れましたが、2人ともエーデルローズ生との食事シーンもお風呂シーンもありませんでした。ミナトの場合、本音を話し、力になってくれたのは地元の家族です。東京にいる6人とそこから離れた場所で話が進む構成の当番回はカケルに続いて2人目でしたが、ミナトの場合はミナトが寮に帰ったシーンで6人の出迎えもなく、7人が一つの画面に収まる瞬間はなかったと思います。7人の絆の深め方という点では、全く足りていないと言わざるを得ないでしょう。

また、東京に残されていた6人について。彼らが話すのは常に食事のことで、ミナトがいなくなったことよりも「ミナトがいなくなったことによって自分たちのご飯が供給されなくなってしまった問題」を話し合うことに終始していた印象があります。ミナトは彼らと同じ学生で、スタァ候補生です。プリズムショーを行う仲間です。その視点が徹頭徹尾落ちていることが恐ろしく(カケルはちょっとだけ触れていましたが)、これは6人側の成長課題でもあるのかなと思いました。

これらの課題について、今まではミナト自身が料理係としての立場に満足し、甘んじていた部分もあったのだと思います。ただ、両親の言葉を受けて披露したプリズムショーは素晴らしいものでした。自分を卑下しすぎず、あの日に受けた衝撃を取り込みながら、自分にできる精一杯のプリズムジャンプを跳ぶ。そんなミナトなら、きっと今後、個人としても、スタァとしても、6人の仲間とも成長していける。私はそう、信じています。

KING OF PRISM スタァになるということ(5話ジョージ回感想)

何度でも見たいジョージ回。他に大好きなスタァはいれど、お当番回としてはジョージ回が1番好き。あまり順番を付けるのは好きではないけれど、それでもジョージ回は1番好き。田舎から出ること、東京という街への憧れ・期待、何かを選びその他を捨てるということ、そして、その裏にはスタァになりきれない男がたくさんたくさんいること。似た境遇にある人間の心を滅多刺しにする回だと思います。


第2章は名前がテーマの章だと思う、という感想を前回カケル回でさせていただきました。

http://turnerr.hatenablog.com/entry/2019/05/13/000545?_ga=2.134297017.937225136.1557537343-878373701.1556705864

ジョージは本川則之を捨てて、高田馬場ジョージとしての人生を自分で選びます。いつか一男に向き合わなければならない、と言いながらカケルを名乗る十王院とは対照的です。

今まで見たことのなかったフォルムの本川則之くんから発せられる言葉は、見た目のインパクトとは全く違う種類の衝撃でした。「こんな街嫌いじゃ」「東京に出るんじゃ」「法月仁はすげえんじゃ」「法月仁の下でスタァになるんじゃ」…田舎で生きる息苦しさ、閉塞感、東京に出ればこんなものから解放されるはずだという期待、それらは「こんな街嫌いじゃ」の気持ちと相まって、本川則之くんに本川則之を捨てさせ、高田馬場ジョージとしての道を選ばせるに十分なものだったでしょう。

人間の評価軸は、成長とともに変化していきます。小学生のときは足が速い男の子に人気が集まり、中学生では悪い男の子に、高校生では…と、人気のある男の子のタイプが変化していく現象は、強弱はあれど誰もが体感したことのある現象だと思います。そして、田舎であればあるほど、コミュニティが濃密であればあるほど、初期の出遅れは致命的です。小学生の時に「そういうやつ」にされてしまえば、中学でも高校でも、小学生の頃の自分を知っている人間がいる限り「そういうやつ」で居続けさせられる。そこからの一発逆転は本当に困難で、よほどの「何か」が必要になります。恐らく高校に上がったと思われる本川則之くんの(小学生時代とは違った意味での)衝撃的なビジュアルも、そうであるなら一定納得が出来ます。「こんなところ嫌いだ」「こいつらとは違う人間になる、東京に出てこいつらより良い生活を送る」と言って少しずつ少しずつ田舎から離れて東京に出て来た人間として、岡山時代の回想と、それに対比される高田馬場ジョージの東京での華やかさ、そして「のりくんはすげぇんじゃ」と全てを肯定してくれるミヨちゃんに、どれだけ映画館で救われたことか。何度観ても涙を流さずにはいられない、個人的にとても強く感情が揺れるシーンです。


ジョージの「プリズムスタァとしてのプロ意識の高さ」が随所随所に見られることは、他の方々が指摘されている通りだと思います。それは、エーデルローズのスタァ候補生たちが1人の人間として思い悩みながらスタァ候補生としても個人としても成長していくのとは対照的に、ジョージが個人的な悩みも葛藤も人間的成長も既に過去の物として乗り越えて、スタァとしてのみ生きていく覚悟を決めた人間だからなのだと思います。おそらく彼の中に残った最後の「本川則之」がミヨちゃんだったのでしょう。ミヨちゃんの結婚宣言により半ば強制的に「本川則之」を剥がされたジョージが、ぼろぼろになりながら「俺を誰だと思ってる。The シャッフルの高田馬場ジョージだ!」とステージに向かった瞬間、彼はスタァ高田馬場ジョージの1つの最終形に到達したのだと思います。だとすればジョージのスタァとしての段階は、明らかにエーデルローズ候補生からひとつ上にいます。そう思うと、ショーの高得点も全く違和感はありません。エィスと2人で飛んだからだ、という解釈もありますが、単純に今の段階ではスタァとしてジョージが頭ひとつ抜けているからかな、というのがわたしの気持ちです。


また、ジョージ回は、ジョージの成長だけでなく裏番組的にエィスの成長物語としても機能しているのだと思います。「俺が歌わなければジョージなんて」から、「ジョージが俺の歌を待っている!」までの気持ちの変化はまさに心の飛躍、プリズムジャンプ。


シュワルツローズに所属する際、おそらく歌唱力のみを法月仁から認められ、ジョージのゴーストシンガーとしてのみ表舞台に出ることを(出てないけど)許されたエィス。それを受け入れられていない、自分だってジョージのゴーストシンガーではなく1人のプリズムスタァなのだと考えているような描写が前半には多く見られます。ジョージの焼肉弁当を食べたり、ミヨちゃんの前でジョージの秘密をばらしそうになってしまったり。そんなエィスが「ジョージと自分とは『格』が違う」という事実を目の当たりにする瞬間がありました。一つは、ミヨちゃんに壁ドンをキメたシーン。ミヨちゃんは「のりくんはうちのスタァなんよ」と言ってエィスに背を向け、ジョージのところへ走り出す。「スタァっていうのは、このタイミングで登場できる男のことを言うんだよな…」とジョージのスタァ性と同時に自分の平凡さを悟るエィス。エィスだってそれなりにプライドがあります。自分だってジョージの代わりにステージに立つことができる、自分なしではジョージはステージに上がれないとさえ思っているわけです、この時点では。そんな彼が自分の平凡さに「気付かされる」この瞬間は、5話屈指の名シーンだと思っています。結局ここでも自分が平凡であると悟るエィスを通じて、ジョージのスタァとしての非凡さ、圧倒的なスタァ性を裏からも描いているのです。

こうしてエィスの気持ち、プライドを揺さぶっておいて、「俺を誰だと思っている。The シャッフル、高田馬場ジョージだ」が来るわけです。ジョージをジョージたらしめる「意志」、天性の輝きだけではない、鋼のような意志と努力に裏打ちされたスタァとしてのジョージ…更にダメ押しの音響トラブル(仲間割れ)と、それに気を留めずスタァとしてのパフォーマンスをやり切ろうとするジョージ…もういいよ!ジョージがすごいのはよく分かったから!こっちの気持ちが持たないよ!こっちは平々凡々な人間だから、エィスくんにもそれなりに感情移入しているんだよ!!!!!


とはいえ、ジョージが本川則之を捨てて高田馬場ジョージとして生きていくということは、強さと同時に弱さも内包させてしまっているというのもまた事実だと思います。本人にとって消したい過去であっても、捨てたい自分であったとしても、その頃がなければ、その頃の感情や努力や、苦しみや怒りがなければ今の自分はいません。どんな過去も現在の礎になっているし、だからこそ過去を完全に捨てることなど出来ず、過去から目を背け続けるといつかどこかでぐらぐら揺れてぽきっと折れてしまいます。ラーメン屋さんでミヨちゃんが指摘してくれた「こんなことで揺らいだとしたら、迷っとんのはのりくんの方じゃろ」はまさに高田馬場ジョージの弱さを突いた、幼馴染だからこそ見える、言える言葉だったのかなと思います。ジョージ、いつかは過去の自分も受け入れて、ミヨちゃんに「本川則之の頃から応援してくれていてありがとな」って言えるといいな…


ショーでエィスの目線が帽子で隠れているのはやっぱり影の存在だからなのかなとか、ジャンプを跳んだあと着地が出来ていないところはやっぱりスタァとしては今一歩なのだなとか、そういう話はこのくらいにしておきます。何故なら長くなりすぎてしまうから。きっと他の方がたくさん考察して下さっていると思うので、色々読みたいなと思います。


一つだけ、最後に一つだけ。ミヨちゃんはお昼ごはんに何をリクエストしたと思いますか?わたしどうしても分からなくて…

「ラーメンが食べたい」だと、あのお店には連れて行かない気がするんです、ジョージは。ミシュランいくつ星とか、東京でしか食べられない変わったラーメンとか、そういうのに連れて行きそう。だって東京でのジョージのエスコートは、徹頭徹尾「ミヨちゃんの見たいもの」よりは「ジョージがミヨちゃんに見せたいもの」だったじゃないですか。

だから、ミヨちゃんのリクエストは「ラーメン」ではなかったのかなと思っていて。例えば「東京でのりくんが初めて入ったお店」とか。「実はこっそり行きつけにしているお店」とか。そういう感じなのかなって思ったんですが、何の根拠もないので。エリートの皆さんはどう考えているんだろうって…ご意見聞かせていただければ幸いです。特に意味はないです、ただの興味です。でも、色んな人の考察とか感想読むの、楽しいじゃないですか。ね。

KING OF PRISM 愛をくださいZOO(4話カケル回感想)

ふざけたタイトルにしてみました。箱推しだけど、アレクの女だけど、エデロで誰か選べと言われたらカケル。そんなわたしの見た、カケル回感想です。


まずは、無事に放送されてよかったですね。劇場上映後色々あった回でしたので、テレビ放送されてホッとしました。でもこの話はこれで終わります。


4話カケル回、劇場では第2章の始まり、ヒプマイコラボ後見に来て下さった方々がおそらく初めて目にしたKING OF PRISM、そして令和が始まって最初の回。これだけ初めてが揃うとなんだか嬉しくなっちゃいますね。きっとそういう役割を与えられた回だったのだろうと思います。


第2章は3つのお話のテーマがたぶん近くて、「名前」なのかなと思いました。カケル回は、カズオとカケルについて。副題も「愛と共に翔ける」で、今の彼を表す完全な8文字だなと感動しました。アイキャッチは万太郎の「最近は目先の利益にとらわれて〜」につながるし、相変わらず仕事が細かい。

いきなりマダガスカル。財閥の専務取締役なのは知っていたけれど、マダガスカルにも会社あるの?規模感が違う、想像もできない。辞令を告げられたとき、最後まで返事をしないカケルが印象的でした。

家族シーンでは、お母さんの目がカケルにそっくりで。十王院家の血は、お母さんからカケルにしっかり流れていったんだなと思いました。ユキさまのお家も婿養子でしたよね。ちょっとネタバレですが、ミナト回も。何かあるのかい?


マダガスカルで王族の末裔に出会ったカケル。自分は王族の末裔であり、「いつか僕が、王国を再建するんだ」と強い目で語るメリナに対して、跡継ぎであるという立場を重々理解していながら、本社にはもう戻せないかもしれないと父に言われてマダガスカルに出て来たカケルは、少し険しい顔をメリナに向けるのみで返事をしません。見ていてとてもつらいシーンでした。カケル、何を思っていたんだろう。


メリナの「世界で一番きれいな景色はどこか知っているかい」は、やっぱり色々な受け止め方があると思います。奢りと言われるかもしれないけれど、でも私たちが安い労働力を買い叩いてきたのは事実。いきなり社会問題を入れてくる監督の勇気もすごいですね。わたしたちは慌ててプリリズADやDMFを見るだけでなく、社会の勉強もする必要があるのかもしれません。

余談ですが、非公式ファンクラブ会報は「はばたき。」誰が付けたんだろう、センス良いですよね。

カケルの過去は壮絶でした。そんなことある?というか制服何色あるの?なんで手のところに「王」って入れちゃうの?首元のあれも「王」なの?どれだけ王好きなの?

でも、「自分には後継は務まらない」と思えるのは、自分は後継者であるという自覚と覚悟があるからですよね。中学生ですよ、この人。どれだけ早熟というか、たくさんたくさん色んなことを経験して考えていたんだろうなと思いました。カケルがエデロの中で「大人になりすぎる」瞬間がたくさんありますが、こういう下地があったんだなと…でもそんなに無理しなくていいんだよ…涙

「愛があるなら確かめてみたい、そして飛びたい。」エデロの門を叩いたときのカケルの言葉です。これ上手いなと思ったのは、前半だけだと、穿った見方をすれば、祖父から経営には愛が必要だと説かれたけれど分からないしなんか愛の数値カンストするプリズムショーというものを見つけたから勉強しよう、みたいな、経営者としての判断にも聞こえてしまう。でも、「そして飛びたい」が入ることによって、そうじゃなくてこれはプリズムスタァとしての決意、覚悟なんだと分かる。細かい台詞回しで出来る限りミスリードを減らしていくスタイル、これは天才の仕業だ。

一方日本では、カケルはなんでカケルなの?という、みんな感じていた疑問に答えが出ていました。タイガ回ではお姉ちゃんが色々と話してくれましたが、カケル回で話してくれたのはユキさま。もー不器用ブラザーズだなータイガとカケルは。

でも結局、ユキさまが話してくれたのは「エデロに入ったときから本人はカケルって名乗りたがっていたよ、本名だと活動しにくいというそれっぽい理由を教えてくれた後、それと飛びたいんだよね…って言ってたよ」という、それだけなんですよね。分かったような、分からないような。

ここ、このだらだら感想の中で一番言いたいんですけど、このユキさまからのエピソードトークを聞いてなお、この6人は違うことを考えていて、違う景色を見ているんですよ。怖くないですか、ねぇ監督、なんでそんなことするの?

「普段はチャラチャラした風を装っているけれど、根は真面目だからな」というミナト、これは「飛びたいという気持ちに向き合い、『飛ぶ』という意味に取れるカケルという名前を付けた、カケルはすごいな、真面目だな」という気持ちですよね。前向き。

その一方でユキさまのお言葉がこちらです。

「十王院の看板を背負うのは、なかなかの重圧なんだろう」

後ろ向き!!!!!ユキさまにとってのカケルという名前は、「明らかに跡取りである人間に付けられた『一男』という名前、そこから逃げたくなることもあるよね、経営者のときはカズオなんだろうけど、スタァ候補生の彼はカケルなのだろう」みたいなそういう見え方なんだなと。それはもちろん国立屋を背負って立つユキさまだからそう見えたのだろうし、実際カケル自身そういう面もあるのだろうと思います。そのあとマダガスカルでそういう趣旨のこと言っていましたしね。今はまだ一男に向き合えていないけれど…って。でもユキさまそれいま無邪気に言わなくていいじゃん!タイガ回で7人の距離は縮まったように思っていましたが、やっぱり根本的な違いはもちろんあるのだと、改めて感じさせられました。育ってきた環境が違うから、すれ違いは否めない。図らずも、ミナトと言えば、セロリ。


そして始まるプリズムショー。え、別にいいけど…で始まるのがカケルらしいというか。別の場所で行ったプリズムショーをプリズム1でもやるという構成は、タイガのときと同じです。だからこそ余計に、タイガの力強い覚悟との対比が面白いなと思いました。さっきまで着ていたお洋服に、おそらくその辺の大きくてきれいな葉っぱやお花を付けて衣装にしたのでしょう。どこからか現れた動物さんたちも観客。動物さんたちがみんな二匹ずつなのは、ここがただの動物園ではなく、自然保護施設の役割を担っているからだという考察をどこかで読みました。オスメスを保護・飼育して、繁殖させる。なるほど、すごく納得できる設定だなと思ったので、触れさせていただきます。

プリズムショーの口上は、「十王院カケル、飛んでみせる!」

副題と口上は、ユキさまとタイガの時は同じでした。カケルは違う。意味があるのかないのかは分かりません。「愛と共に翔ける!」って言うのかなと少し期待していたのですが、飛んでみせる!もかっこよかったので良かったです。

そしてプリズムショー。いやー顔が良い。現実世界でも大好きなクリムキンイーグル。スタイルが良い、顔が小さくて脚が長い。そして吹き出す天然ガス。「天然ガスが、出たーっ!」「yo daddy, I did it!」のスピード感。吹き出す札束。どんどん伸びていく黄金色のビル。舞い散る札束。リズムに合わせて合いの手を入れてくれる動物さん。最高。ここのショー部分だけ毎日見ています。会社に行く前と帰って来たあと。そんなことをしていたら、随分感想書くのが遅くなりました。

「王に選ばれし者、オレンジのフラミンゴの祝福を受ける」の解釈は色々な方が色々なことを言っていて、きっとおそらく唯一の正解というわけではなくてどれも正しいみたいなそういう着地なのだろうと思ってはいるのですが、わたしはカケルとメリナがお互いに王かつ王に選ばれし者で、オレンジフラミンゴ天然ガスだと思っています。そう思う理由はたくさんあるのですが、長くなるのでひとつだけ。だって景気良いじゃん!

ちなみにカケル、プリズム1のステージだといつの間にかステージ移動していて、最初メインステージでショーを始めるんですけど、最後砂漠のゴールドラッシュワンナイトヘブンのときはセンターステージにいるんです。ビルがにょきにょき生えたあと、斜め上からのアングルの時にカケルの後方にオレンジサイリウムの波が見えます。フィギュアスケートだとリンクを広く使った方が良いみたいな価値観があるのですが、プリズムショーでもそういうのあるのかな。ステージ広く使うと煌めきアップ!観客目線で言えば、単純に近くに来てくれると嬉しくて心が煌めくので、それで得点ちょっと増えたりはしていそうかな、と思いました。

続けましょう。ミナトとタイガが思わず「カケル」と言ってしまうシーンも良いですね…今までこの2人はカズオ呼びだった、それはたぶん、カケルと呼ばれたい理由を知っていながらも、親からもらった名前は大事だぞとか、スタァじゃなくて友人としてはカズオだろとか、そういうことなんじゃないかと思うんです。そういうこと言いそう。(どこかで公式から答えが出ていたらごめんなさい、無知なので教えてください。)でも、そういう「考えてのカズオ呼び」みたいなものを飛び越えて「これはスタァの十王院カケルなのだ!」と熱い気持ちから思わず叫んでしまった「いいぞカケルー!」が最高で…カケル…ジャンプも飛んだし、立派なスタァなんやで…

ラストシーン、レオくんに抱きつかれ、仲間に囲まれたカケル、笑顔とは慈しむような、優しい、包み込むような顔をしていましたね…写真にしたい、引き伸ばして額縁に入れて壁に飾りたい。アニメ版ではそのあとにこっと笑うラストに変わっていましたが、あれはどういう意図なのかな…いや、どっちも好きです。でも額縁に入れたいのは笑顔になる前の顔の方。


ここまで長々と感想書いて来ましたが、それでも、今までの2人に比べて明らかに「薄い」回だったという印象はやはり拭えません。一言で言えば、食事もお風呂も見てない。

カケルの過去語りは、東京ではユキさまから、カケル自身の口からは、仲間たちから遠く離れたマダガスカルにおいて、メリナ(とリビングストンさん)という初めて会った人に対するものでした。カケルが腹を割って仲間たちに本音を話す、情けないところを誰かに見せる機会はありませんでした。カケルは個人的に階段をひとつ登った感はありますが、それはメリナやリビングストンさんの力を借りたもので、6人との共同作業はありません。劇場で見たときは、なんだかなーもうちょっとなーと思ったのが正直な感想ですが、今はもうわたしは第4章を見た世界線に来てしまったので、そういうこともありなのかなと思っています。まだ7人を強くする余地を残しているのだと。まぁ分からないですが。でもやっぱり、カケルがこれからエデロの仲間とぶつかったり本音を話したり、もっとたくさんジャンプを跳んだりするところ見たいので、やっぱり続き見たいな…監督…2期を…2期をお願いします…

カケわかという世界線

カケル回の感想を書こうと思っていたんです。

本当です。


始まりは些細なことで、カケルのショーってわかなと似てるなって、足元細かいステップを重ねるあたり似ているなって、それだけだったんです。


そこから止まらなくなりました。


「わんばんこー」という軽い挨拶が同じ

にゃーにゃー言うのが同じ

ω ←こういう口が同じ

人との距離を一定取ってしまうところが同じ

親の無茶ぶりに困った顔をして笑うところが同じ


同じじゃーーーーーん

この2人、とても同じじゃーーーーーん


歳、一緒?わかなが一個上?


「ちゃんわかの気持ちは知ってるけど、俺っちちゃんわかのこと好きになっちゃった。返事今すぐにはいらないから、ちょーっち考えといて〜☆」みたいな軽めの告白をカケルからしてほしいし、軽く見せているだけで裏ではすごく思い詰めていてほしい、高2組に赤面しながら「言っちゃった…」って告げてほしいし、2人は優しく包み込むような笑顔でカケルの想いを肯定してほしい、わかなは「にゃーーーーー?!?!?!」って言いながら思い悩んでほしい、夜に「どうしよう…」って言いながらエスニをつんつんしてほしい、1年くらい返事を待たせてほしい、その間あんに「わかなー!カヅキ先輩がどこどこにいるんだってー!一緒に行こうよー!」って誘われても適当にもごもご言って行かないでほしい、それで「カヅキ先輩もこんな気持ちだったのかな…」ってまた夜中に思い悩んでほしい、最終的にはお付き合いすることを決めて真っ赤になりながらお返事してほしい、それを聞いたカケルにも真っ赤になってほしい、ストレートに愛情表現するのもストレートな愛情表現を受けるのも苦手同士で悩みながら日々を過ごしてほしい、付き合ったあとカケルがいるとわかなの様子が少しおかしいことに気付いたべるとおとはに「わかな、もしかして…」「メルヘーン♡」ってからかわれてほしい、でもべるもおとはもすごく喜んでくれて応援してくれて、2人にそんな風に喜んでもらえることをとても喜ぶわかなが見たい、なぜか敏感に様子を察知するなるちゃんが6人一緒の場で「わかなちゃん最近はぴなるだよね〜っ」って無邪気にバラしてほしい、そして露ほども気がつかなかったあんには「えーーーー?!?!?!いつの間にーーー?!?!?!」ってすごくびっくりしてほしい、いとちゃんは何でもないふりしながらあとでこっそり2人で「エデロオバレあるあるネタ」みたいなのをひっそり話して笑い合ってほしい、お付き合いが始まってしばらくしたらカケルは夜に1人で練習しているときに唐突に胸キュン体験きゅんきゅんきゅんを跳べるようになってほしいし、たまたまリンクに来ていたタイガはそれを見てびっくりしてほしい、わかなは3人で練習しているときに跳んで、べるとおとはに優しく微笑みながら祝福されてほしい(ここまで一息)


感情のままに殴り書きしてしまった


しれっと追記

わかなとカケルがお付き合いしていることを知ったあんちゃん、その場では「そっかーじゃあカヅキ先輩はわたしがもらっちゃうねっ」みたいな不用意なこと絶対言わないけれど、お家に帰って夜ひとりになったときにふと「わたしはこのままカヅキ先輩のこと好きでいいんだよね…?」みたいな謎の感情にもやもやしてほしい