そして明日も生きようと思う

好きなものは、アニメ・アイドル・あまいもの。30代に向かってお散歩中。

気がつけば早速3年A組を見なくなってしまった

菅田将暉くんの熱烈ファン、又は3年A組大好きな方々は回れ右をお勧めします。



テレビでは日曜ドラマ3年A組が流れている最中の時間だけれども、仕事が遅くなってしまっていまわたしは電車に乗っている。録画もしてこなかったし、そもそも存在を忘れてしまっていた。3年A組第3話を見る機会を逸してしまった後悔は、ない。


菅田将暉くんも永野芽郁ちゃんも上白石萌音ちゃんも福原遥ちゃんも好きで、何より、AKBオタクのわたしは、川栄りっちゃんが大好きだ。だからこのドラマを本当に楽しみにしていた。

1話を見終わるまでは。


色々と思うところはあった。菅田将暉くん演じる担任の先生のキャラクターとか、上白石萌音ちゃんの書く手紙とか、永野芽郁ちゃんの台詞回しとか。

それでも、それよりも何よりも決定的にだめだったことがあった。

菅田将暉くんが何度も何度も発した、「何故彼女は死ななければならなかったのか」という台詞だ。


「何故彼女は死ななければならなかったのか」という質問に対する答えは1つしかない。「死ななければならない理由などない」だ。それは、どんな文脈でも同じだ。「死ななければならない」人など、たとえフィクションの世界であっても存在しないはずだ。なぜ「どうして彼女は死を選んだのか」せめて「何故彼女は死ななければならないと思った/思ってしまったのか」と言えないのか。言えなかったのか。死ななければならない、の言葉の持つ暴力性を、圧力を、余りにも軽々しく扱ってはいないか。それは、どれだけ菅田将暉くん演じる担任の先生が追い詰められていたとしても、教え子に対する、最後まで守るべき絶対防衛ラインではなかったか。殴って言うことを聞かせることも、生徒を刺すことも、爆弾の恐怖で生徒の行動を支配することも、全部譲ったとして、それでも、自ら死を選んだ人間に対して「死ななければならなかった」とは、絶対に絶対に言ってはいけなかったし、言ってはいけないのではないか。


もしかしたら大きな意味のある言葉なのかもしれない。それなら早く種明かしをしてほしい。

もしかしたらそんなに深く考えていないのかもしれない。それならそんな脚本家は筆を折ってほしい。


死ななければならない人間などいない。その事実は、あのドラマを見ているであろう層に、繰り返し繰り返し投げかけるべきメッセージだと思うから。テレビがやらないなら、わたしが言う。

どうか、無意識のうちに「自分は死ななければならない」と思う人間が出ませんように。そんな人間はいないのだから。